「日本国を愛する」という事を考えてみる

2017年6月2日

「日本国を愛する」という事を考えてみる

1.日本国とは何だろう?と考えてみる。

日本国の始まりは、日本国憲法が制定されてからだろうか?

と考えてみるが違うと思う。

その前から日本国は有ったと思う。

では、日本国は維新と呼ばれる事件からなのだろうか?

天皇陛下が国の実権を取り戻したと言われる、あれの事だろうか?

維新と言う出来事が有って、幕府が倒れて新政府が出来たが、これの事だろうか?その新政府が出来た事によって、日本国が出来たのだろうか?

しかし、それを考えてみると違ってくると思う。

というのも、江戸幕府において祭り事と言われる政策を担って来たけれど、江戸幕府を開いた徳川家康は天皇陛下から征夷大将軍に任命されて、祭り事を担ったわけ。

だから、考えてみると維新で出来た明治政府も、江戸幕府も大差は無く、天皇陛下の庇護に有る民や政府や領土、領海が日本国と言える事になると思うし、それが日本の歴史的にも事実の様です。

それでは、天皇陛下が即位したのは何時頃なのだろうか?というと、日本書紀に記載の日本神話では神武天皇が紀元前660年2月11日に即位し、その日が日本国の建国日と成るようです。

いろいろ考えてみると、日本国=天皇陛下と言える関係から、日本国を愛すると言う者は、必然的に天皇陛下を愛す事に繋がる訳ですね。

2.愛するとは何だろう?と考えてみる。

愛には色々有るようですが、個人的に愛を明確に表していると考えられると思うのが、聖書に書かれている1コリント13章だと思います。

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

これを読むと、刺々しい気持ちの時でも和らぐと言うか、そうだよなぁ~。と思ったりもしますが、書いて有る事は、崇高と言うか至高と言うか、これを実行しようとすると、非常に難しいのを実感します。世界最高峰の山の頂を見て、ぬおぉぉ~ぉこれが愛というものかぁ~と思って眺めてしまう。そんな感じもします。

3.日本国を愛すると言う事を考えてみる。

1項の日本国を2項の愛する事が、日本国を愛すると言う事になりますが、範囲が広くなり過ぎ漠然としてしまう気もしますが、きっと「日本死ね」と言う言葉と、その言葉を言った人は、日本を愛する事とは真逆だと思います。

また、愛する事の始めはまず聞く事から始まると聞いていますので、管理者も色々なご意見、ご感想を聞く事から日本国を愛し、北海道を愛し、地元を愛する事が始まるようです。

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